2014年9月24日水曜日

不景気の渦

13年前の二十歳。
人の紹介で某ウェットスーツ製造会社に勤める事になった。

時給650円

当時の世の中は、バブルが崩壊し経済はどん底に低迷しブクブクと太りすぎた
大企業はダイエットしようと社員をスパスパ首を刎ねる。リストラというものが世の中に流行り出した時代。
就職先も激減し、フリーター、ニートといった人々も増え続けた。

学歴の無い自分が今後生き残るには手に職を付ける必要があると感じ、ものづくりという職種にのめり込み、必死にウェットスーツ製造を学ぼうと思った。

ものづくりという仕事は楽しいが賃金が上がらず当然ボーナスも無く、生活が貧しい日々。結果、この10年間この状況が良くなる事はなかった。
むしろますます悪化している様な気がする。

立たされた状況がおかしいと気付いたのは就職して2年後くらいだろうか。
時給650円から三ヶ月後、正社員として700円に昇給し各種保険も掛けてもらえたのだが色々と差し引かれて月給にすると10万円程度の金額しか手元に残らない。
不景気だし、手取りが低い といっても保証もあるし、学歴も無い自分はこんなもんかと
感じる反面、これじゃ車も買えなければ、結婚も出来やしないという不安も沸々と膨張しはじめ1年後には辞職しようと上司に相談した。

当時の会社形態は主にパートが主体で社長の下に工場長、数人の時給制の社員が数名の20人前後の会社で、暫く勤めた若い男性社員は主に自分1人だけで、何人か他にも男性が勤めた時期もあったのだが、賃金が安いという理由ですぐ退職していった。

仕事内容は、流れ作業の1工程をひたすら数をこなすという、一日中作業台に向かいロボットのように安定した速さを求められる作業。
3ヶ月程度の繁忙期には残業もあり、忙しさにかまけて不安も中和され束の間の潤いに浸れた。
辞職を相談すると時給を50円あげるからと引き止められ、もう1年我慢することを決めた。むしろもっと会社にとって必要な人材になればもっと給料が上がるかもしれない。月給も夢じゃない。などと 淡い期待にかられ、2年目は自分の製造能力を高め、会社の売上に繋がるべく作業効率を改善し続け、貢献度を高めた。従業員全体も比例して良くなっている気がしたものの、依然として会社の売上は年間通してトントンか、下回る結果になる。

なぜこんなに死にもの狂いで頑張っても売上が伸びないのだろう。いつこの泥沼から抜け出せるんだろう。どこか変だと気づいたのが2年後の事だった。

その頃、既にウェットスーツ製造も国産製から海外製にシフトし始め、賃金の安い外国人も技術を熟練すると品質も高めていった。

2年が過ぎ結果がでない社長がやめ、負けじと頑張っても所詮750円の社員という名だけのパートに絶望感は消えない。

なぜ売上が上がらないのか。その答えは「製造単価が安すぎる」という事に気がつく。
それが資本主義の末端の労働者の宿命なのだと。

不景気でものが売れない。売価を安くする。支出も抑えるため賃金を安くして、材料を安くする。デフレのスパイラルで製造を海外に委託し、より安い商品を消費者に提供する。
買う側からしてみれば安く商品が買えるに超した事はないが、作り手からするとどんなに作っても自分の賃金はあがらない。むしろ賃金のやすい外国人に仕事を奪われ負けてしまっているのだ。
親会社との関係もあって製造単価も上がらず、自分は何の為に仕事をしているか分からなくなっていた。

3年目の年、新しく変わった社長は親会社の専務でサッカーのコーチもやっていたせいか、周りとのコミュニケーションを大事にし、売上を伸ばそうと意欲があり、揺るぎない強い芯みたいなのが伝わって来た。
のちにコバルトーレ女川GM兼石巻日日新聞社長、近江弘一さんだった。
当時から衰退する地方都市への地域貢献を目指していて、若者が将来へ夢をもてる環境を目指していた。
近江さんに呼ばれ、工場長も年配で今後取りまとめる人材が居ないからと、自分を副工場長にし時給を1000円にすると言った。
さらに親会社がないと生存出来ない子会社ではなく、他社からも仕事をもらい、しっかり黒字経営し独立した会社にしたらお前に譲ると語った。
そして、近江さんがこれから作るサッカーのクラブチームと共有させ地域密着型の地域貢献を目指すという、度肝を抜かれは話をされた事を今でも忘れない。

今までは、作業台に俯いて、だってとか。しょうがないとか。何の為に仕事をしてるか分からないとか。そんな暗闇から、少し光が射したように感じた。
だが、結局、クラブチーム設立を親会社からバックアップしてもらう事も出来ず、離職という選択を選ばざるを得なかった。
自分もまた、この負のスパイラルを脱する事も出来ず、自分に対しての苛立ちも募るばかり。
会社に勤めて5年目、また新たな社長が配属された。親会社の製造部長を兼任しながら子会社の社長を務める事になった。
この年、作業効率を過多に重視した年だった。製造単価が改善されないという根本的な改善がされないまま、乾いた雑巾を限界まで絞って一滴垂れる水滴のように、安単価商品を何分、切り詰めて着数を伸ばすという果てしない作業効率の改善を求められた。

自分はウェットスーツを作るのが好きという、暗示のような一心で勤め上げて来たけれど
全ての工程を熟練したわけでなく、分からない部分もまだまだ沢山有ったのだが、
このまま続けていくと管理職を与えられ、とことん作業効率を追求したある意味ウェットスーツを知らない将来になると想像ができた。
せっかく5年間も面白くも苦労して続けたウェットスーツ業。管理や作業効率ではなく、素材の特徴や型紙、縫製など全てを習得して自らの手で1着仕上げる勉強がしたいと発起して25歳で別のウェットスーツ製造会社に再就職する事を決めた。


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